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牛供養塔及び二千七百六十人之霊供養塔

所在地
高輪2‐16‐22

所有者
宗教法人願生寺

概 要
2基 歴史資料 平成20.9.9指定

法 量
(牛供養塔)総高258cm
(二千七百六十人之供養塔)総高235cm

写真タイトル

牛供養塔(左)
二千七百六十人之霊供養塔(右)

牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋7家(吉田・水谷・仙波・田中・山口・大田・岩井)によって、牛供養のため元文3年(1738)に建立されたのを初めとします。碑文によれば文化3年(1806)には、牛屋は4家が残るのみになっていたようです。車町は俗に牛町ともいい、江戸幕府が江戸城増築などの際に重量物の運搬をするために招いた京都牛町の牛屋をこのあたりに常住させていました。

現在の塔正面に刻まれた「南無阿弥陀仏」の題字は江戸時代中期の高僧祐天〈ゆうてん〉上人(1637‐1718)の書を写し刻んだもので、文政11年(1828)に建立されたものです。祐天は、将軍から庶民にいたるまで生き仏として尊敬された人物で、その功徳を願って筆跡を写し、建てられたものと思われます。供養塔は、その後慶応2年(1866)、大正3年(1914)、昭和14年(1939)に牛屋の系譜を引く運送業者により修復が行われています。

二千七百六十人之霊供養塔は、元禄2年(1689)から文政13年3月15日までに無縁となった2,760人の霊の供養のために伊勢屋茂兵衛ほか6名が世話人となって文政13年に建立された供養塔です。碑正面には牛供養塔と同様に祐天上人の筆跡を写した「南無阿弥陀仏」の文字が彫られています。3段の台座及び棹石側面には合計701人分の戒名・俗名が刻まれています。刻まれた面毎の書体は同じですが、全体として統一されておらず、建立後に順次刻まれたものと思われます。また、慶長7年(1602)の寺創立から元禄元年までの過去帳が焼失したことも記録されています。

江戸で唯一の牛町の存在を伝える歴史資料として、また庶民の信仰を示す資料としても貴重といえます。

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