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ヒュースケン墓

所在地
南麻布4‐11‐25

所有者
宗教法人光林寺

概 要
史跡 昭和56.10.24指定

ヒュースケンは、アメリカの通訳兼書記として安政3年(1856)7月下田に到着し、さらに江戸に入り、総領事ハリスの片腕となって、困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好通商条約締結にも尽力します。ヒュースケンは、その快活な性格と日本語に通じていたことによって、江戸の人々にも知られていました。

安政6年(1859)6月に麻布善福寺が米国仮公使館とされて、ハリスとともにヒュースケンも移り住みました。

万延元年(1860)12月、ヒュースケンは、オイレンブルグの日普修好通商条約の交渉の手伝いをするため、善福寺の子院とプロシア使節の宿舎であり条約協議の会場でもあった赤羽接遇所との間を騎馬で往復していました。12月5日午後9時頃、善福寺へ帰る途中、一団の浪士に襲撃され、刀で腹部を深く切られて落馬。宿坊に運ばれましたが間もなく死亡しました。

麻布の光林寺が墓所に選ばれ、葬儀は12月8日に行われました。その葬列は、幕府の外国奉行・5か国の弔旗・アメリカの国旗で被われたヒュースケンの柩・各国の公使領事ら・プロシアの軍楽隊・護衛の海兵隊などからなり、アメリカ仮公使館から光林寺までの沿道は好奇心に満ちた群衆であふれたといいます。光林寺の墓地では、まずジラール神父によりローマ・カトリックの儀式が行われ、その後日本の僧侶による供養がなされました。

墓は唐破風の笠をもつ長方形石塔で、表面に

SACRED/ to the Memory of/ HENRY C. J. HEUSKEN/
Interpreter to the/ AMERICAN LEGATION/ in Japan./
BORN At AMSTERDAM/ January 20, 1832./
DIED AT YEDO/ January 16, 1861.

と刻まれています。

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