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港区の変遷


港区ゆかりの人物データベースを利用する上で、港区域の近世以降の歴史について、おおよその理解をしておくと、さらに人物たちと港区域との関係が見えてきます。キーワードを見出しとして掲げ、港区の変遷を簡単にまとめました。
  • 江戸時代
  • 増上寺と寺町
    江戸入城の際に、徳川家康の帰依を受けた増上寺は、将軍家の菩提寺となり、港区域に広大な敷地を与えられ、慶長3年(1598年)現在の地に移ってきました。後に港区域には寺院の創建や移転が繰り返され、寛永12年(1635年)には、現在の三田、赤坂、高輪に寺院が一挙に転入し、寺町が形成されました。
    大名屋敷
    19世紀初頭の記録を見ると、当時の大名のおよそ半数が港区域に屋敷を持っていました。地域別には、麻布・六本木地区にもっとも多く、新橋や虎ノ門辺りがこれに次いでいました。屋敷の種別では、江戸城に近い新橋・虎ノ門地区に上屋敷が集中していました。
    外国公使館
    安政5年(1858年)いわゆる「安政の5ケ国条約」が成立し、世界に向かって門戸を開くと、最初の外国公使館が善福寺(アメリカ)、東禅寺(イギリス)、済海寺(フランス)、長応寺(オランダ)に置かれ、赤羽には外国人接遇所が設けられました。今日、港区に多数の外国大使館が置かれているのも、こうした伝統や歴史的な背景を反映しているものと思われます。
  • 明治から戦前
  • 3区の時代
    明治になって、港区域では町名の変更と合併による改称が頻繁に繰り返されました。明治2年(1869年)、明治4年(1871年)に大きな行政区改定があり、その後小さな変更が何度も加えられ、明治11年(1878年)に東京府が15区6郡に改変されると、芝区、麻布区、赤坂区の3区が誕生しました。この3区が港区の前身となります。
    新橋・横浜間鉄道開通
    明治5年(1872年)、新橋・横浜間には、日本最初の鉄道が開通しました。新橋・横浜間を1時間以内で移動できるようになり、西洋文明の入り口であった横浜から、人の往来とともに文明の波は港区域に及んできました。
    軍隊の街
    明治の半ば以降、麻布、赤坂、青山は軍隊の町という性格を帯びていきました。近衛兵が反乱を起こした竹橋事件がきっかけで、皇居前・丸の内にあった兵営が港区域に移動させられたことなども影響し、歩兵第一師団、近衛師団歩兵連隊、麻布連隊区司令部、第一師団司令部、陸軍大学校などの軍の施設が集中していきました。
    東京大空襲
    太平洋戦争が終戦を迎える頃、港区域は連日にわたり空襲を受け、区域の大半が焼失しました。15万人近い人々が被災するとともに、多くの歴史的な建造物や文化的な施設が破壊されました。
  • 戦後
  • 港区の誕生
    終戦を迎え、日本の政治・行政・経済諸制度の民主化の気運が都政にも波及し、区自治権確立の動きが活発になりました。都は自治権の基盤強化と戦後復興への対処を目的として区域の再編成を行うことになり、昭和22年(1947年)、芝区、麻布区、赤坂区の3区が統合し、港区が誕生しました。
    インターナショナル
    戦後は旧日本軍の施設の多くは米軍に引き継がれました。軍関係の施設の多かった港区にも米軍が駐留し、その影響で六本木のように洋風のレストランやファッションの店が軒を連ねる商業地も生まれました。各国大使館の存在とともに、港区にはインターナショナルな雰囲気が醸成されていきました。
    高度成長
    昭和30年代の高度経済成長は港区の町の様子を一変させました。高速道路の建設、幹線道路の拡幅に加えて、高層のオフィスビルやマンションの建設が相次ぎ、芝公園に建設された東京タワーは戦後復興のシンボルとなりました。TV局の誕生ともあいまって、赤坂、青山、六本木はファッショナブルなビルが立ち並ぶ国際的な繁華街へと生まれ変わりました
    再開発ブーム
    昭和60年代に入ると、港区には大規模な再開発の波が押し寄せ、街並みも含めて地域一体にビジネス機能や都市文化機能を集中させる、新しい都市開発が行われました。湾岸地区も臨界副都心として、新たな都市開発が進められています。