以心崇伝(いしん・すうでん)
永禄12年(1569)
寛永10年(1633)
江戸
僧侶
金地院
増上寺
芝公園3-5-4

黒衣の宰相 金地院 徳川家康
永禄12年-寛永10年(1569-1633)。臨済宗の僧。足利義輝の家臣一色秀勝の二男。京都南禅寺金地院(こんちいん)の靖叔徳林(せいしゅく・とくりん)の法を継ぎ、慶長10年(1605)37歳の若さで南禅寺270世の住持となります。徳川家康に重用され外交事務、寺社行政、諸法度の起草、キリスト教の禁圧などに関与。最高顧問として幕府の基礎をなす立法に辣腕を振るいました。また古書の蒐集・謄写など文芸方面でも活躍。江戸金地院の開山。通称は金地院崇伝。
幕政の枢機に参与した黒衣の宰相、芝に金地院を開く
崇伝和尚の前半生は、南禅寺の塔頭(たつちゅう)金地院の復興を成し遂げ禅僧として頂点を極めます。そして後半生は、家康、秀忠、家光と徳川三代の幕政に参画し、黒衣(こくえ)の宰相と称されました。家康に召されて慶長15年(1610)駿府に、元和4年(1618)芝にそれぞれ金地院を開山。京都と江戸を往復し、僧録として臨済宗五山以下の寺院の統制にあたりました。諡号(しごう)の円照本光国師にちなんだ『本光国師日記』、外交記録の『異国日記』などの書物も著しています。しかし、長年の激務がたたり、家光の指示で送られた名医の治療の甲斐もなく、芝の金地院で亡くなりました。死の寸前まで遺言状などを作成し、最期は渾身の力で辞世の句を書き記したと言われています。亡骸は荼毘に付され京都の金地院に葬られました。なお芝の同院には江戸時代前期に活躍した儒者堀杏庵(ほり・きょうあん)の墓が残されています。また東京タワーが立つ場所は、かつて金地院の境内だったところです。
◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社)
『事典 日本の名僧』(吉川弘文館)
『京の古寺から30 金地院』(佐々木玄龍/淡交社)
金地院(芝公園3-5-4)
『異国日記 金地院崇伝外交文書集成 影印本』(東京美術)

『戦国の参謀たち』(小和田哲男/実業之日本社)
『徳川家康』(二木謙一/ちくま新書)
『図説徳川家康 ふくろうの本』(河出書房新社編集部編/河出書房新社)
