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上杉朝興(うえすぎ・ともおき)

  • 生年
長享2年(1488)
  • 没年
天文6年(1537)
  • 活躍年代
室町
  • 職業
武士
  • ゆかりの地
高縄原古戦場跡
  • 旧地名
高縄
  • 現地名
高輪3丁目付近地図を表示

  • キーワード
北条氏綱


  • プロフィール
長享2年-天文6年(1488-1537)。戦国時代の武士。上杉朝興は庶流出身でしたが、実力で扇ヶ谷上杉家の当主となり、関東の覇権をめぐって北条氏綱や氏康など後北条氏と闘いを繰り広げた武将です。しかし、北条氏綱の勢いの前に居城の江戸城を支えられずに河越城(現・埼玉県川越市)へと逃れ、勢いを挽回できないまま河越城で没しました。朝興の跡を継いだ朝定(ともさだ)も氏綱に敗れて河越城を失いました。さらに北条綱成(つなしげ)や氏康の軍に敗れて戦死し、扇ヶ谷上杉氏は滅びたのです。

  • 港区とのかかわり
高縄原の闘いで雌雄を決する

大永3年(1524)、関東進出をもくろむ北条氏綱の軍は江戸城を拠点とする扇ヶ谷上杉家の上杉朝興を攻めるために来襲し、高縄原(現・高輪)で上杉軍と闘いました。高縄というのは、このあたりが海沿いの高台で、そこに真っ直ぐな道「縄手(なわて)」が通っていたことからついた名です。この一戦で先手の北条軍と新手の北条軍に挟撃(きょうげき)されて敗走した上杉軍は江戸城に立てこもりますが、北条軍に内通した家臣の太田資高(おおた・すけたか)・資貞(すけさだ)兄弟が、門を開けて北条軍を招き入れたため江戸城を捨てて河越城へと逃れました。太田道灌の孫にあたる太田兄弟は朝興に不満を持っていたようです。こうして高縄原での闘いを機に北条氏は勢力を伸ばし、やがて関東を制圧しました。

◎参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)

  • ウォーキング・ポイント
高縄原古戦場跡(高輪3丁目付近)

  • 関連出版物
『戦国関東名将列伝』(島遼伍/随想舎)
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