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大岡忠相(おおおか・ただすけ)

  • 生年
延宝5年(1677)
  • 没年
宝暦元年(1751)
  • 活躍年代
江戸
  • 職業
大名
  • ゆかりの地
赤坂豊川稲荷
  • 旧地名
元赤坂町
  • 現地名
元赤坂1-4-7地図を表示

  • キーワード
赤坂豊川稲荷 徳川吉宗


  • プロフィール
延宝5-宝暦元(1677-1751)。大名。旗本出身の大岡忠相が山田奉行から町奉行、さらに寺社奉行に栄進して奏者番(そうじゃばん)を兼ねる大名になったのは8代将軍吉宗の信任が厚かっただけでなく、誠実で有能な仕事ぶりが認められていたからです。老齢のため隠居願いを出しても寺社奉行はともかく奏者番にだけはとどまるよう懇請されたほどです。特に町奉行のときは小石川養生所の設置や町火消しの創設など民政に力を注ぎ、江戸の米相場を高騰させた両替商を糾弾して物価の引き下げを行うなど、経済政策にも手腕を発揮しました。

  • 港区とのかかわり
赤坂の豊川稲荷を信仰する

忠相は悪人に厳しく庶民にやさしい名奉行というイメージが強いのですが、捕り物も人情噺もほとんどが中国の本や他の人物のエピソードに基づいたフィクションにすぎません。それよりも、江戸の町づくりや関東の新田開発に力を注ぎ、物価上昇を抑える政策を打ち出すなど、庶民の立場に立って誠実な仕事ぶりを見せた理想的な政策官僚というほうが実像に近いようです。その忠相が信仰していたのが豊川稲荷です。所領の三河国(現・岡崎市)から赤坂一ツ木の上屋敷(旧赤坂小学校敷地)内に勧請(かんじょう)したのが東京・赤坂豊川稲荷別院の始まりです。明治になって現在の場所(元は定火消屋敷)に移りますが、商売繁盛を願って訪れる人が絶えません。赤坂という繁華な土地にふさわしいお稲荷様です。

◎参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『大岡越前守忠相』(大石慎三郎/岩波新書)
『江戸大名100話』(小和田哲男監修/立風書房)
『江戸東京物語山の手編』(新潮社編/新潮文庫)
『嘉永・慶応 江戸切絵図』(人文社)
『角川日本地名大辞典13東京都』(角川書店)

  • ウォーキング・ポイント
赤坂豊川稲荷別院(元赤坂1-4-7)

  • 関連出版物
『大岡越前守』(辻達也/中公新書)
『大岡越前守』(宇野脩平/NHKブックス)
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