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(上)35歳の頃、着物は自らデザインしたもの(下)39歳の頃、「スタイル」編集室にて 提供:藤江淳子
宇野千代関連写真
(上)35歳の頃、着物は自らデザインしたもの(下)39歳の頃、「スタイル」編集室にて 提供:藤江淳子
宇野千代関連写真
(上)35歳の頃、着物は自らデザインしたもの(下)39歳の頃、「スタイル」編集室にて 提供:藤江淳子

宇野千代(うの・ちよ)

  • 生年
明治 30年(1897)
  • 没年
平成 8年(1996)
  • 活躍年代
昭和
  • 職業
作家
  • ゆかりの地
港区各所
  • キーワード
青山二郎 『スタイル』


  • プロフィール
明治30-平成8(1897-1996)。作家。昭和11年(1936)にスタイル社を設立し、日本初のファッション雑誌『スタイル』を発行。戦争中に廃刊となったものの、昭和21年(1946)に復刊すると爆発的にヒット。自らもモデルとして登場し、時代の寵児となりました。昭和32年(1957)代表作『おはん』で野間文芸賞を受賞。和服のデザイナーとしても活躍し、また86歳で出版した『生きて行く私』はベストセラーとなりました。

  • 港区とのかかわり
明治生まれの“恋多き女性”が住んだ、最後の家

宇野千代は“恋多き女性”と形容され、またその生き方が多くの女性の共感を呼んだ作家でした。13歳で最初の結婚をしたのち、数回の結婚・離婚を繰り返し、さらに東郷青児など多くの恋人が千代の人生を彩りました。そして、その激しい生き方を象徴するかのように、生涯で13軒もの家を建てています。

会社の脱税が発覚し、『スタイル』の発行部数も激減するなかで、千代は贅をつくした木挽町の住居を始めとする資産を売り払って青山南町の家に移ります。

スタイル社の倒産、元夫の尾崎士郎の死、東郷青児・青山二郎らの死、北原武夫との離婚、菊池寛賞や芸術院賞等の受賞……。青山通りの裏手にある、この家で、千代は58歳から亡くなるまでの40年間、いよいよ劇的で華やかな後半生を過ごしました。

◎参考文献
『コンサイス日本人名辞典』(三省堂)
『宇野千代幸福の言葉』(海竜社)
『生きて行く私(上)(下)』(毎日新聞社)
『わたしの宇野千代』(瀬戸内寂聴/中央公論社)

  • 著作
『おはん』(新潮文庫)
『わたしはいつでも忙しい』(中央公論新社)
『幸福を知る才能』(海竜社)
『宇野千代きもの手帖 お洒落しゃれても』(二見書房)
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  • 関連出版物
『わたしの宇野千代』(瀬戸内寂聴/中央公論社)
『宇野千代の幸せを呼ぶ生き方』(中山庸子/三笠書房)
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