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(下)沖電気の原点となった石丸安世邸  提供:沖電気工業株式会社
沖 牙太郎関連写真
(下)沖電気の原点となった石丸安世邸  提供:沖電気工業株式会社
沖 牙太郎関連写真
(下)沖電気の原点となった石丸安世邸 提供:沖電気工業株式会社

沖 牙太郎(おき・きばたろう)

  • 生年
嘉永元年(1848)
  • 没年
明治39年(1906)
  • 活躍年代
明治
  • 職業
実業家
  • ゆかりの地
沖電気工業
  • 旧地名
芝琴平町10
  • 現地名
虎ノ門1-7-12地図を表示

  • キーワード
青山霊園 沖電気工業


  • プロフィール
嘉永元-明治39(1848-1906)。実業家。広島の農家の末子。少年期に銀細工を習い、長州征伐時には藩の武具所で金具作りを担当。明治7年(1874)に上京し、工部省電信寮製機所でルイス・シェーファーに学び、電信機の国産化に尽力しました。また同所内に「ヤルキ社」という研究グループを結成し、紙製ダニエル電池と漆塗り線を開発。辞職後、電気通信機器メーカーの明工舎(後に沖電機工場、沖商会となる沖電気工業の前身)を設立しました。

  • 港区とのかかわり
虎ノ門の工場からスタートした電気通信事業のパイオニア

上京後、自作の銀かんざしを添えた履歴書が功を奏し、電信寮(後に電信局)製機所に入所。同僚には、東芝の源流となる会社を興した2代目田中久重や三吉正一らがいました。牙太郎は工部省の技手として腕を磨く一方、芝西久保桜川町(現・虎ノ門1丁目)にあった初代電信頭・石丸安世邸の長屋で、電信局の下請工場を始めました。設備は足踏み旋盤2台ながらも独立の準備を着々と進め、明治14年(1881)明工舎を銀座に創立。沖電機工場に改称後、敷設工事については東京でほぼ独占的な地位を獲得し、最大手の通信機器メーカーへと成長させました。12階建ての浅草凌雲閣の工事を手がけた際には、見物客に上と下で通話させ、その技術力をアピールしたと言います。沖商会時代には、磁石式並列複式交換機の初の国産化にも成功しました。牙太郎没後は芝浦などに工場を開設して規模を拡大。のちに沖電気工業となり、創業80周年を機に現在の本社所在地(虎ノ門1-7-12)に移転しました。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『コンサイス日本人名事典』(三省堂)

  • ウォーキング・ポイント
沖牙太郎の墓(南青山2-32-2・青山霊園)

  • 関連出版物
『進取の精神 沖電気120年のあゆみ』(沖電気工業)
『通信機ビジネスの勃興と企業家活動 沖牙太郎と岩垂邦彦を中心に』(長谷川信・青山学院大学/長谷川信)
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