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長松寺の史蹟
荻生徂徠関連写真
長松寺の史蹟

荻生徂徠(おぎゅう・そらい)

  • 生年
寛文6年(1666)
  • 没年
享保13年(1728)
  • 活躍年代
江戸
  • 職業
儒者
  • ゆかりの地
荻生徂徠の墓
  • 旧地名
三田豊岡町
  • 現地名
三田4-7-29 地図を表示

  • キーワード
赤穂義士 けん園塾 古文辞学 長松寺 柳沢吉保


  • プロフィール
寛文6年-享保13年(1666-1728)。江戸時代中期の儒者。字(あざな)は茂卿(しげのり)。通称は惣右衛門。号は徂徠。父の方庵(ほうあん)は五大将軍徳川綱吉に仕える医師でしたが、徂徠が14歳のときに咎を受け、江戸を追放になり、上総本納村(現・千葉県茂原市)に移り住みます。父が赦されると、徂徠は江戸に戻り、儒学の講釈をして暮らし、元禄9年(1969)31歳のときに徳川綱吉の側用人の柳沢吉保に引き立てられます。後に日本橋茅場町に住み、私塾のけん園(けんえん)塾を開き、後進を育成するとともに、江戸に漢詩を流行させました。

  • 港区とのかかわり
赤穂義士の討ち入り事件で切腹を主張

徂徠は父と上総に移り住んだ時に、独自に漢籍などの学問を究めました。江戸に戻ってからは、芝増上寺の門前に居を構え、そこで講釈をして生計を立てていました。極貧の生活であり、近所の豆腐屋が見かねて、豆腐の売れ残りを持ってきてくれるほどでした。後に出世してからも、その豆腐屋に対する恩義は忘れず、この話が「徂徠豆腐」という創作落語になっています。

徂徠は朱子学を批判し、孔子以前の古代の“先王の道”への回帰を訴え、古文辞学を提唱。言語を超える儀式と音楽、“礼楽(れいがく)”の重要性を指摘するなど、優れた理論家であるとともに、徳川吉宗や柳沢吉保の政治的な助言者でもありました。赤穂義士の討ち入り事件では切腹を主張し、幕府にその意見が入れられたことはよく知られています。徂徠の墓所は三田の長松寺にあります(国史跡S24.7.23指定)。

◎参考文献
『コンサイス日本人名事典』(三省堂)
『江戸思想史講義』(子安宣邦/岩波書店)

  • ウォーキング・ポイント
荻生徂徠の墓(三田4-7-29・長松寺)

  • 著作
『日本思想体系 荻生徂徠』(岩波書店)
『荻生徂徠全集』(みすず書房)
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  • 関連出版物
『荻生徂徠 江戸のドンキホーテ』野口武彦 中公新書
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