和宮親子内親王(かずのみや・ちかこ・ないしんのう)
弘化3年(1846)
明治10年(1877)
江戸 明治
将軍正室
麻布の邸宅跡
麻布市兵衛町
六本木1-19付近

有栖川宮熾仁親王 公武合体 増上寺 徳川家茂
弘化3-明治10(1846-1877)。14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室。仁考(にんこう)天皇の第八王女。有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)との婚約を破棄され、兄の孝明(こうめい)天皇や岩倉具視が進める公武合体のため家茂に降嫁しました。大奥での天璋院(てんしょういん)との確執を家茂のとりなしで乗り越えたものの、4年後第二次長州征伐に出向いた家茂が大坂城で亡くなり、静寛院宮(せいかんいんのみや)として菩提を弔いました。後の戊辰戦争では徳川慶喜の助命を嘆願するなど幕府擁護の姿勢を見せました。
麻布の邸宅に3年間暮らす
不本意な結婚ながら和宮は家茂と睦まじく暮らしていたと言われています。戊辰戦争時に明治天皇に手紙を書いて慶喜の助命嘆願をしたのも家茂を思ってのことかもしれません。明治になって一旦京都に帰った和宮は、明治天皇の勧めもあって明治7年(1874)から3年間ほど麻布市兵衛町の邸宅に住みました。和宮の墓は家茂とともに増上寺にありますが、戦後、改葬のために発掘調査したところ、副葬品として直垂(ひたたれ)に立烏帽子(たちえぼし)姿の男性の写真乾板が見つかりました。しかし、扱いが悪かったのか、翌日には写真の男性の姿は消えてしまい誰だったのかはわかりませんでした。家茂説が有力ですが有栖川宮とも言われています。増上寺では毎年10月2日に静寛院和宮奉讃法要が行われます。
◎参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『和宮人物叢書新装版』(武部敏夫/吉川弘文館)
『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』(鈴木尚/東京大学出版会)
『東京の「地霊」』(鈴木博之/文春文庫)
『静寛院宮御日記 続日本史籍協会叢書』(東京大学出版会)
『和宮様御留』(有吉佐和子/講談社文庫)
