桂昌院(けいしょういん)
寛永4年(1627)
宝永2年(1705)
江戸
将軍の生母
増上寺
増上寺
芝公園4-7-35

春日局 増上寺 徳川家光 徳川綱吉
寛永4-宝永2(1627-1705)。5代将軍徳川綱吉の生母。京都堀川の八百屋仁左衛門の次女。二条関白の家司(けいし)本庄宗正の養女として大奥に入り、春日局(かすがのつぼね)に見出されて3代将軍家光の側室となり綱吉を出産。お玉の方と呼ばれ、家光死後は出家し、桂昌院と称しました。女性最高位の従一位を授かり、綱吉の政策の陰の力となりました。また神仏への信仰が厚く、護国寺建立のほか多くの社寺復興に寄与しています。
増上寺に犬公方綱吉の母が眠る
お玉が幼女のころ、ある僧侶が「この子は大変な出世を遂げるであろう」と告げたそうです。その予言どおり、八百屋の娘から女性最高位へと上り詰めた桂昌院。名前と出世した経緯から、「玉の輿」の代名詞とされることも多いようです。延宝8年(1680)綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入り政治に介入。有名な生類憐みの令も、寵愛していた隆光僧正の提案を受け、綱吉に働きかけたという説が一般的です。また、桂昌院の従一位宣下の勅使下向の際に江戸城で勃発したのが、浅野内匠守長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)による「松の廊下事件」でした。桂昌院が葬られた芝公園の増上寺には、2代将軍秀忠、6代将軍家宣ら6人の将軍と、各公の正室と側室の墓が設けられています。区の有形文化財に登録されている徳川家墓所の鋳抜門(いぬきもん)は本来、家宣の墓前にあったものです。唐様の青銅製で両袖塀には昇り龍と下り龍が鋳抜かれ、門扉の10個の葵紋は戦後に付け替えられたものです。
◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『日本女性人名辞典』(日本図書センター)
増上寺(芝公園4-7-35)
『女人絵巻』(澤田ふじ子/徳間文庫)
『徳川家光』(山岡荘八/毎日新聞社)
『徳川綱吉 人物叢書新装版』(塚本学/吉川弘文館)
『徳川三代なるほど事典』(尾崎秀樹監・大衆文学研究会編/東京堂出版)
