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崇源院(すうげんいん)

  • 生年
天正元年(1573)
  • 没年
寛永3年(1626)
  • 活躍年代
室町 安土桃山 江戸
  • 職業
将軍正室
  • ゆかりの地
増上寺
  • 旧地名
増上寺
  • 現地名
芝公園4-7-35地図を表示

  • キーワード
浅井長政 我善坊谷 増上寺 徳川家光 徳川秀忠


  • プロフィール
天正元-寛永3(1573-1626)。2代将軍徳川秀忠の正室。浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の3女で、豊臣秀吉の側室淀殿の妹。通称は小督(おごう)、お江与(えよ)など。2度の落城で両親を失い秀吉の庇護を受けました。尾張大野城主・佐治与九郎一成(さじ・よくろうかずなり)との離縁、羽柴秀勝との死別を経て、文禄4年(1595)6歳年下の秀忠に再び嫁し、千姫、家光、忠長、和子など2男5女をもうけました。

  • 港区とのかかわり
数奇な運命に翻弄され、増上寺で静かに眠る御台所

豊臣と徳川を結ぶ政略結婚ながら、秀忠は15代将軍の中で唯一側室をもたなかったと言われています。子宝にも恵まれ、千姫は豊臣秀頼の正室に、家光は3代将軍に、忠長は駿河城主に、和子は後水尾(ごみずのお)天皇中宮の東福門院になりました。お江与は将軍夫人という御台所(みだいどころ)の座を手にしましたが、大坂の陣では実姉淀殿と対立。また自らの手で育てた二男忠長を偏愛し、家光との確執を深めたとされています。寛永3年(1626)9月15日江戸城にて永眠。遺骸は、江戸中の名刹の住持列席のもと盛大に荼毘に付され、芝の増上寺に葬られます。将軍家一族の中で火葬にされたのは崇源院のみで、荼毘所は現在の麻布台1丁目の東西にのびる我善坊谷と思われます。かつて増上寺には、家光が建立した崇源院霊廟を含む豪壮華麗な将軍家霊廟がありましたが、戦災でそのほとんどを焼失。のちの改葬で徳川家の墓所は本堂裏手の一画にまとめられました。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『日本女性人名辞典』(日本図書センター)

  • ウォーキング・ポイント
増上寺(芝公園4-7-35)

  • 関連出版物
『徳川秀忠 徳川政権の礎を築いた男』(百瀬明治/PHP文庫)
『徳川秀忠 上下』(戸部新十郎/毎日新聞社)
『徳川三代と女房たち』(中島道子/立風書房)
『一冊でのみこむ家康・秀忠・家光徳川三代』(小和田哲男監/東京書籍)
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  • ゆかり+
増上寺(浮世絵)
増上寺(建築)

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