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所蔵:財団法人 徳川記念財団
徳川家継関連写真
所蔵:財団法人 徳川記念財団

徳川家継(とくがわ・いえつぐ)

  • 生年
宝永6年(1709)
  • 没年
享保元年(1716)
  • 活躍年代
江戸
  • 職業
将軍
  • ゆかりの地
増上寺
  • 旧地名
増上寺
  • 現地名
芝公園4-7-35地図を表示

  • キーワード
新井白石 月光院 増上寺 間部詮房


  • プロフィール
宝永6-享保元(1709-1716)。7代将軍。家宣(いえのぶ)には男児が5人、女児が1人ありました。しかし、月光院が生んだ鍋松以外は早く亡くなり、家宣自身も体調を崩したので、将軍職を御三家の尾張中納言・徳川吉通(よしみち)に譲るか、鍋松の後見人とすることを考えました。これに対して儒者の新井白石は強く反対したので、鍋松が家宣亡き後、わずか4歳で7代将軍家継となったのです。こうして側用人の間部詮房(まなべ・あきふさ)と新井白石が補佐したものの家継はわずか8歳で亡くなりました。

  • 港区とのかかわり
増上寺に葬られた幼い将軍

家継の生母として月光院の大奥での権勢は大きくなり、側用人の間部詮房や新井白石ともども老中や天英院など反月光院派の反感を買うようになりました。それが形となったのが「絵島・生島(えじま・いくしま)事件」です。月光院付きの年寄絵島が役者の生島新五郎と密通したとして信州高遠(たかとお)に流され、生島新五郎も島流しになったのです。この事件は老中派の策謀だったとも言われていますが、いずれにしても幼い将軍ゆえの悲劇が起きたのです。その家継も8歳で亡くなり増上寺に葬られました。戦後の改葬に伴う発掘調査によれば、家継の棺には長年の雨水が入り込んで遺骨は存在せず、家継のものと思われる遺髪と爪、刀などの遺品があるのみだったと言います。

◎参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『徳川将軍100話』(中江克己/河出書房新社)
『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』(鈴木尚/東京大学出版会)

  • ウォーキング・ポイント
増上寺(芝公園4-7-35)

  • 関連出版物
『徳川十五代史』(内藤耻叟/新人物往来社)
『別冊太陽 徳川十五代』(平凡社)
『新訂増補・國史大系月報』(國史大系編集曾/吉川弘文館)
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