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所蔵:財団法人 徳川記念財団
徳川秀忠関連写真
所蔵:財団法人 徳川記念財団

徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)

  • 生年
天正7年(1579)
  • 没年
寛永9年(1632)
  • 活躍年代
安土桃山 江戸
  • 職業
将軍
  • ゆかりの地
台徳院霊廟惣門
  • 旧地名
増上寺
  • 現地名
芝公園4-8地図を表示

  • キーワード
紫衣事件 増上寺 徳川家康 保科正之


  • プロフィール
天正7-寛永9(1579-1632)。徳川家康の三男、2代将軍。真田昌幸に中山道での進軍を妨げられ、上田城攻めに時間をとられて関ヶ原の戦いに間に合わず、家康から厳しく叱責を受けました。やがて、2代将軍として大御所となった家康とともに二元政治を展開、大坂冬の陣、夏の陣に出陣し、豊臣家を滅亡させました。家康没後は福島正則など41名に上る大名を改易(かいえき)したほか、紫衣(しえ)事件にともなって後水尾(ごみずのお)天皇に退位を強いるなど、幕府権力の強化に努め、3代将軍家光に将軍職を譲った後も大御所として実権を握りました。

  • 港区とのかかわり
秀忠の霊廟の惣門が芝公園内に

秀忠と正室の於江与(おえよ・淀君の妹)は家光ではなく弟の忠長をかわいがりました。おかげで家光の三代将軍就任が危ぶまれたほどです。家光はこのときの悔しさが忘れられなかったのか、長じてから忠長を切腹にまで追いつめました。しかし、異母弟の保科正之(ほしな・まさゆき)は厚く遇しました。家光に重んじられた保科家は後に松平の姓も賜って、会津松平家として今のシオサイト(汐留)に上屋敷(後に中屋敷)を拝領し、幕末の京都守護職・松平容保(かたもり)まで幕府に尽くしました。さて、秀忠が亡くなると台徳院として増上寺に葬られ、家光は立派な霊廟を建てました。その霊廟は戦災に遭って焼失しましたが、美しい惣門が芝公園内に残っています(国の重要文化財)。なお、戦後の改葬に伴う発掘調査によれば、秀忠は後の貴族的な体つきの将軍たちと違い、戦国武将らしい鍛え抜かれた体だったということです。

◎参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『嘉永・慶応 江戸切絵図』(人文社)
『江戸大名100話』(小和田哲男監修/立風書房)
『汐留遺跡』(港区立港郷土資料館)
『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』(鈴木尚/東京大学出版会)
『汐留遺跡』(東京都埋蔵文化財センター・港区立港郷土資料館)

  • ウォーキング・ポイント
台徳院霊廟惣門(芝公園4-8)

  • 関連出版物
『新訂増補・國史大系月報』(國史大系編集曾/吉川弘文館)
『徳川秀忠』(百瀬明治/PHP文庫)
『徳川秀忠:「凡庸な二代目」の功績』(大和田哲男/PHP新書)
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