北条氏綱(ほうじょう・うじつな)
長享元年(1487)
天文10年(1541)
室町
大名
一ツ木古戦場跡
赤坂一ツ木町
赤坂5丁目付近

上杉朝興 高縄原の戦い
長享元-天文10(1487-1541)。戦国時代の大名。北条早雲の子。相模小田原城主。大永4年(1524)上杉朝興(うえすぎ・ともおき)を江戸城から河越城(現・埼玉県川越市)へ敗走させたのを皮切りに武蔵へ進出。今川義元と戦った河東一乱(かとういちらん)、足利氏と里見氏の連合軍を破った第一次国府台(こうのだい)の戦いなどを経て、駿河の東から伊豆、相模、武蔵、上総、下総へと勢力を伸ばしました。また、鶴岡八幡宮の造営を完成させて北条氏の勢威を内外に示すなど、早雲が一代で築いた後北条氏の拡大に力を注ぎました。
一ツ木原で勝どきを上げる
氏綱は、初め伊勢新九郎を名乗っていましたが、大永3年(1523)姓を北条に改めました。これは、氏綱らを「他国の凶徒」呼ばわりする上杉朝興に対して、鎌倉幕府執権の北条氏を名乗ることで相模や武蔵の正当な統治者であることを主張したためだと見られます。このため後北条氏と呼ばれることもあります。さて、氏綱は北条改姓の翌年、上杉朝興を攻めて高縄原の戦いで破ったのに次いで、太田資高(おおた・すけたか)・資貞(すけさだ)兄弟の内通によって江戸城も奪い、河越城へと潰走する上杉軍を追撃しました。このとき取った敵の首を並べ、北条の旗を掲げて勝ちどきを上げたのが一ツ木原(赤坂5丁目付近)です。
◎参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『戦国北条一族』(黒田基樹/新人物往来社)
一ツ木古戦場跡(赤坂5丁目付近)
『後北条氏研究』(小和田哲男/吉川弘文館)
『日本中世政治社会の研究』(小川信先生の古希記念論集を刊行する会/続群書類従完成会)
