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『内田魯庵山脈』(山口昌男/晶文社)より。
増田甲斎関連写真
『内田魯庵山脈』(山口昌男/晶文社)より。

増田甲斎(ますだ・こうさい)

  • 生年
文政3年(1820)
  • 没年
明治18年(1885)
  • 活躍年代
江戸 明治
  • 職業
通訳
  • ゆかりの地
芝西久保の自邸
  • 旧地名
芝西久保
  • 現地名
虎ノ門3丁目付近地図を表示

  • キーワード
源昌寺 ゴシケビィッチ ロシア


  • プロフィール
文政3-明治18(1820-1885)。遠州掛川藩(静岡県)の藩士。伊豆の戸田(へだ)に逗留中だったロシア海軍の通訳ゴシケビィッチに僧侶の姿で近づき、その手引きでロシアへの密航を決行しました。ロシアでは通訳官となり、ウラジミール・イオシフォヴィッチ・ヤマトフと名乗り、ゴシケビィッチとともに『日魯通言比考(わろつうげんひこう)』という日露辞書を作成しました。その際、後書きには橘耕斎と記しました。

脱藩して、無頼の徒となり、やがて仏門に入ったなど、ロシア渡航以前の経歴は数奇で不明な点が多いとされています。18年あまりをロシアで過ごすことになりましたが、明治6年(1873)モスクワを訪れていた岩倉具視から、「新政府は脱国の罪を問う意思はない」と伝えられ、帰国の途につくことになりました。ロシア政府は長年の勤めに報いるために旅費および年金を支給しました。

  • 港区とのかかわり
日露外国の橋渡しとなり、晩年を芝公園内で暮らす

帰国した後には、掛川藩主太田資始(すけとも)の孫である資美(すけよし)子爵が用意した芝西久保(現・虎ノ門3丁目)の家に滞在しました。甲斎のことはすぐに町内に知れ渡り、連日、近隣の光円寺や青竜寺の本堂でロシア時代の体験談話会が催されました。後に明治政府により芝公園内の増上寺境内の南隅に新居が設けられ、こちらを住まいとしましたが、応接や資料の整理などの仕事は芝西久保の家でそのまま行いました。芝西久保の仕事場には、生きたロシアの情報を得たいと考える政治家やロシア語を学習中の学生などが頻繁に訪れ、私塾のような様相を呈し、ロシア談義の声が絶えることはなかったと言います。65歳で波乱万丈の人生の幕を閉じ、高輪の源昌寺に葬られました。

◎参考文献
『日露外交の先駆者・増田甲斎』(木村勝美/潮出版社)
『明治事物起源3』(石井研堂/国書刊行会)

  • ウォーキング・ポイント
増田甲斎の墓(高輪1-23-28・源昌寺)

  • 関連出版物
『日露交渉史話』(平岡雅英/原書房)
『内田魯庵山脈』(山口昌男/晶文社)
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