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所蔵:財団法人三井文庫(転載の場合は財団法人三井文庫の許可が必要です)
益田 孝関連写真
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益田 孝(ますだ・たかし)

  • 生年
嘉永元年(1848)
  • 没年
昭和13年(1938)
  • 活躍年代
明治 大正 昭和
  • 職業
実業家
  • ゆかりの地
善福寺
  • 旧地名
麻布善福寺門前元町
  • 現地名
元麻布1-6-21地図を表示

  • キーワード
善福寺 ハリス ヘボン塾 三井物産


  • プロフィール
嘉永元-昭和13(1848-1938)。実業家。佐渡の地役人の長男。文久3年(1863)幕府の遣欧使節に随行し、維新後は横浜で貿易商を営みます。その後、明治の元勲井上馨に勧められ大蔵省に入省。明治9年(1876)三井物産社長に就任。日本の商社の代表として綿糸、綿布、生糸、石炭、米などさまざまな物品を取扱いました。工部省から三池炭鉱の払い下げを受けて三井鉱山を設立したことが契機となり、三井物産を巨大な総合商社に育て上げ、三井財閥の発展に貢献しました。鈍翁(どんのう)と号し、高名な茶人、古美術蒐集家としても知られていました。

  • 港区とのかかわり
若干14歳でアメリカ公使館の通訳に

幕末期、アメリカ公使館は麻布の善福寺にあり、公使ハリス、のちに暗殺される通訳官ヒュースケンらが駐在しました。ここに幕府の外国方の通訳として詰めていたのが若干14歳の益田でした。ハリスは気難しい性格だったらしく、机を叩いて叱る声がハリスの二間先の彼の部屋まで聞こえたと言います。西洋文化に刺激を受け、遣欧使節団とともに帰国後、益田はヘボン夫妻が開いていた横浜のヘボン塾(後の明治学院)でさらに英語を学んでいます。その後29歳にして三井物産初代社長に就任。明治40年代の年商は約2億円、当時の日本の貿易総額のほぼ2割を占め、日本最大の総合商社に成長させました。

善福寺にあるハリスのレリーフの記念碑は、益田らによって昭和11年(1936)に建てられたものです。晩年は茶の世界を楽しみ、91歳で逝去しました。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『事典近代日本の先駆者』(日外アソシエーツ)

  • 著作
『益田孝雑話』(糧友会)
『自叙益田孝翁伝』(長井実編/中公文庫)
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  • 関連出版物
『鈍翁・益田孝 上下』(白崎秀雄/中公文庫)
『益田孝天人録』(松永秀夫/新人物往来社)
『三井物産初代社長』(小島直記/中公文庫)
『経営に大義あり 日本を創った企業家たち』(日本経済新聞社編/日本経済新聞社)
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