赤穂義士(あこうぎし)
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江戸
武士
泉岳寺・ 四十七士墓所
泉岳寺門前
高輪2-11-1

浅野内匠頭長矩 泉岳寺
元禄15年(1702)12月14日、亡き主君・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)の仇を討つため、吉良上野介義央(きらこうずけのすけ・よしなか)の屋敷に討ち入った大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけ・よしお)以下47名の元赤穂藩士。本懐をとげた後は泉岳寺に引き揚げ、長矩の墓前に吉良の首を供えて仇討ちの成功を報告しました。義士たちは、幕命により翌年2月4日、お預かり先の各大名屋敷で切腹。松廊下での刃傷事件に始まる一連の事件は、「忠臣蔵」の名で今も語り継がれています。
亡き主君のもとへと急ぐ“義士”の道
吉良邸は、現在の両国駅の南側、回向院のすぐ近くにありました。本懐をとげた赤穂義士一行は、隅田川沿いを南下して永代橋を渡り、汐留橋、金杉橋を経て約2時間で泉岳寺に到着しました。この事件に対して、幕府は大石らを肥後細川家など四家に預けて処分を検討しますが、最終的には全員の切腹を命令。46名の義士の遺骸は、泉岳寺の主君の墓のそばに葬られました。
なお、引き揚げ途中で姿を消した寺坂吉右衛門は、大石内蔵助の命で瑶泉院(長矩公夫人)や義士たちの遺族に報告してまわったと言われており、のちに自首しますが赦されて天寿をまっとう。麻布の曹渓寺に葬られました。現在、泉岳寺にある墓は、慶応4年(1868)に建てられたものです。
◎参考文献
『コンサイス日本人名辞典』(三省堂)
『古地図ライブラリー別冊切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩』(人文社)
『忠臣蔵とは何か』(丸谷才一/講談社)
『日本史の巷説と実説』(和歌森太郎/河出文庫)
四十七士墓所(高輪2-11-1・泉岳寺)
大石良雄ほか十六人忠烈の跡(高輪1-16-25)
寺坂吉右衛門墓(南麻布2-9-22・曹渓寺)
『横から見た赤穂義士』(三田村鳶魚/中公文庫)
『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修 河出書房新社)
『赤穂浪士(上)(下)』(大佛次郎/恒文社)
『忠臣蔵の謎』(尾崎秀樹編/講談社文庫)

橋本貞秀「元禄快挙義士本望達成之図」(6枚)、歌川国利「赤穂義士肖像双六」、三代豊国「誠忠義士伝大石主税良兼」、四代豊国「忠臣蔵」、土谷伝「義士四十七画帖」、原田種穂「赤穂義人録考(草稿)」、「赤穂義人録釈義」、「義士大観」