川添浩史(かわぞえ・ひろし)
大正 2年(1913)
昭和 45年(1970)
昭和
文化交流プロデューサー
キャンティ
飯倉片町
麻布台3-1-7

キャンティ 光輪閣
大正2-昭和45(1913-1970)。文化交流プロデューサー、高松宮国際関係特別秘書官。伯爵、貴族院議員である後藤猛太郎の庶子として生まれ、資産家の川添家の養子として育ちました。昭和9年(1934)から6年間パリに在住し、国際文化交流の仕事を開始。以後亡くなるまで、さまざまな文化交流事業をプロデュースしました。なお、昭和35年(1960)に梶子夫人と始めたレストラン「キャンティ」は多彩な文化人・芸術家などが集ったことで知られています。
国際交流のプロデュースと飯倉片町のレストラン
川添の業績は多岐にわたっていますが、自ら本職と称したのは終戦直後から高松宮宣仁の国際関係特別秘書官となり、GHQや国賓などをもてなす高輪の「光輪閣」支配人として運営全般を指揮する仕事でした。また、夫人とともに飯倉片町(現・麻布台)につくったレストラン「キャンティ」は、有名無名を問わずさまざまな才能が集うカフェ・ソサエティとなり、そのスノッブな空気は今も伝説のように語り継がれています。
しかし、川添が最も多くの時間と情熱を費やしたのは、吾妻徳穂率いるアヅマカブキの海外公演や文楽の全米公演のプロデュース、親友の報道写真家ロバート・キャパの招聘、カンヌ映画祭での『砂の女』のプロモーションなど多彩な文化交流の仕事でした。
◎参考文献
『キャンティ物語』(野地秩嘉/幻冬社)
レストラン「キャンティ」(麻布台3-1-7)
『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史・井上清一訳/文芸春秋社)
