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北村透谷関連写真

北村透谷(きたむら・とうこく)

  • 生年
明治 元年(1868)
  • 没年
明治 27年(1894)
  • 活躍年代
明治
  • 職業
詩人 評論家
  • ゆかりの地
普連土女学校
  • 旧地名
芝三田
  • 現地名
三田4-14-16地図を表示

  • キーワード
島崎藤村 『文学界』


  • プロフィール
明治元-明治27(1868-1894)。詩人、評論家。政治家を目指して東京専門学校(現・早稲田大学)に入学しますが、自由民権運動に加わり退学。1年余りにわたる積極的な活動ののち、運動のあり方に疑問を感じて離脱、小説家を志しました。明治21年(1888)に結婚後、長詩『楚囚之詩(そしゅうのし)』、劇詩『蓬莱曲(ほうらいきょく)』を発表。その後明治26年(1893)には島崎藤村らと雑誌『文学界』を創刊、『内部生命論』などの評論を書き、浪漫主義運動の先駆けをなしましたが、翌年自殺。25年の短い生涯でした。

  • 港区とのかかわり
芝公園の家で25年の生涯の幕を閉じる

明治23年(1890)普連土(フレンド)女学校の英語教師となった透谷は、妻・美那子とともに芝公園へ転居しました。受洗していた2人は麻布クリスチャン教会へ通い、住まいは芝高輪、麻布箪笥町、麻布霞町などを転々としました。明治26年島崎藤村の後任として明治女学校に赴任、創刊した『文学界』誌上で鋭い評論活動を展開しましたが、徐々に精神の異常が高じ、元の芝公園の家に戻ってからは「我が事終われり」として、もはや筆を執ろうとはしませんでした。5月16日未明、自宅の庭で縊死(いし)を遂げ、その遺骸は芝白金の瑞聖寺(ずいしょうじ)の墓地に葬られました。

◎参考文献
『コンサイス日本人名事典』(三省堂)
『北村透谷』(色川大吉/東京大学出版会)
『東京10000歩ウォーキング』No.8(籠谷典子・編著/真珠書院)

  • 著作
『北村透谷選集』(岩波文庫)
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  • 関連出版物
『北村透谷』(色川大吉/東京大学出版会)
『透谷ノート』(吉増剛造/小沢書店)
『北村透谷 エロス的水脈』(森山重雄/日本図書センター)
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