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『筑摩現代文学大系 22』(筑摩書房)より
久保田万太郎関連写真
『筑摩現代文学大系 22』(筑摩書房)より

久保田万太郎(くぼた・まんたろう)

  • 生年
明治 22年(1889)
  • 没年
昭和 38年(1963)
  • 活躍年代
大正 昭和
  • 職業
劇作家 作家 俳人
  • ゆかりの地
東京放送局
  • 旧地名
愛宕町
  • 現地名
愛宕2-1-1地図を表示

  • キーワード
慶應義塾大学 東京放送局 樋口一葉 三田文学


  • プロフィール
明治22-昭和38(1889-1963)。劇作家、作家、俳人。慶應義塾大学在学中の明治44年(1911)『三田文学』に小説『朝顔』、戯曲『遊戯』を発表し、文壇デビューを果たしました。長編小説には『露芝』『春泥』などがあります。作品では常に下町で暮らす庶民の哀歓を描き続けました。慶應義塾大学の講師、東京放送局(後のNHK)の文芸課長、俳句誌『春燈』の主宰を務め、さらに岸田国士らと文学座の旗揚げにかかわるなど、多彩な分野で業績を残しています。

  • 港区とのかかわり
放送演劇の黎明期に多大な貢献を果たす

大正15年(1926)より、前年に放送を開始した東京放送局の嘱託として、久米正雄とともに愛宕山に通いました。昭和4年(1929)には樋口一葉の『十三夜』をラジオドラマに脚色して放送。さらに昭和6年には文芸課長に就き、常勤となりました。日本の放送文化の黎明期にあって、久保田の文芸全般にわたる博識ぶりと人間関係の機微を押さえた社交術は大きな力を発揮しました。

昭和11年(1936)にはそれまで暮らしていた日暮里から芝区三田に転居。昭和13年まで7年間ラジオ局に常勤しました。晩年は赤坂に暮らし、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」という句を詠んでいます。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『私の履歴書文化人1』(日本経済新聞社)
『久保田万太郎』(戸板康二/文藝春秋社)
『文人暴食』(嵐山光三郎/マガジンハウス)

  • ウォーキング・ポイント
久保田万太郎句碑(三田2-15-45・慶應大学)

  • 著作
『春泥・三の酉』(講談社文芸文庫)
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  • 関連出版物
『久保田万太郎と私』(川口松太郎/講談社)
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