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「浅野内匠頭終焉之地」の碑
浅野内匠頭長矩関連写真
「浅野内匠頭終焉之地」の碑

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)

  • 生年
寛文 7年(1667)
  • 没年
元禄 14年(1701)
  • 活躍年代
江戸
  • 職業
大名
  • ゆかりの地
浅野内匠頭終焉之地
  • 現地名
新橋4-31付近地図を表示

  • キーワード
赤穂義士 泉岳寺


  • プロフィール
寛文7-元禄14(1667-1701)。赤穂5万3500石、第3代藩主。元禄14年、勅使饗応役を命ぜられましたが、式典のハイライトである饗応4日目の3月14日(旧暦)、城中の松廊下で突然小刀を抜き、饗応指南役の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ・よしなか)に斬りつけるという事件を起こしました。これにより長矩は即日切腹、浅野家はお取り潰し。一方の吉良側は、おとがめなし。この処分に対して遺臣が起こしたのが、世に言う赤穂義士(赤穂浪士)の討ち入りです。

  • 港区とのかかわり
赤穂藩主、無念の切腹の後に泉岳寺へ

浅野内匠守長矩がなぜ刃傷沙汰に及んだのかについては謎が多く、当時からさまざまな説が言われてきました。しかしいずれにせよ、事件に対する幕府の処分は前例のない厳しさで、充分な吟味もないまま長矩は田村右京大夫建顕(たむらうきょうだゆう・たてあき)の上屋敷にお預けとなり、即日切腹。遺骸は夜半、遺臣の手によって泉岳寺に運ばれ、埋葬されました。

辞世の句は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」。元禄14年3月14日は新暦でいえば4月21日。遅咲きの桜花が風に舞う、晩春の出来事でした。

現在、新橋4丁目の日比谷通り沿いに「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建てられていますが、これは昭和15年(1940)に町内会(当時の町名は田村町)の有志が紀元2600年を記念して建てたもので、側面には「自刃後二百四十年記念」の文字も刻まれています。なお、元禄時代の田村家上屋敷は、この碑のある場所より50mほど東にありました。

◎参考文献『コンサイス日本人名事典』(三省堂)
『忠臣蔵とは何か』(丸谷才一/講談社)
『日本史の巷説と実説』(和歌森太郎/河出文庫)
『忠臣蔵の謎』(尾崎秀樹編/講談社文庫)

  • ウォーキング・ポイント
「浅野内匠頭終焉之地」の碑(新橋4-31付近)
泉岳寺(高輪2-11-1)

  • 関連出版物
『仮名手本忠臣蔵』(竹田出雲/白水社)
『横から見た赤穂義士』(三田村鳶魚/中公文庫)
『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社)
『赤穂浪士(上)(下)』(大佛次郎/恒文社)
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