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新聞創刊の碑
子安峻関連写真
新聞創刊の碑

子安峻(こやす・たかし)

  • 生年
天保 7年(1836)
  • 没年
明治 31年(1898)
  • 活躍年代
昭和 平成
  • 職業
実業家
  • ゆかりの地
「新聞創刊地」の碑
  • 旧地名
芝琴平町1
  • 現地名
虎ノ門1-2地図を表示

  • キーワード
読売新聞


  • プロフィール
天保7-明治31(1836-1898)。実業家。佐久間象山らに蘭学を学び、明治維新後に外務省翻訳官となりました。明治3年(1870)元外務一等書記官の本野盛享(もとの・もりみち)、通訳の柴田昌吉(しばた・まさよし)らと横浜に日本初の鉛活版印刷会所「日就社」を設立し、英和辞典を出版。さらに明治7年、この設備をもとに東京・虎ノ門で『読売新聞』を創刊し、初代社長を務めました。のちに日銀初代監事にもなっています。

  • 港区とのかかわり
虎ノ門から始まった東京初の本格的新聞

明治6年(1873)、それまで横浜にあった「日就社」は芝の琴平町に移転し、子安らはかねてからの念願だった新聞の創刊準備を進めました。旧播州山崎藩の江戸屋敷跡を改修し、印刷設備を横浜から搬入。英和辞書の訳語に傍訓を取り入れ読みやすくしたところ、好評を博したので、新しく発行する新聞にも振り仮名をつけ、親しみやすくなるように工夫しました。

江戸時代に庶民に浸透していた「読み売り瓦版」から2文字とって「読売新聞」と命名し、明治7年11月2日に第1号を発刊。一般の市民にも読みやすいと評判になり、当初は1日おきに200部だったのが、翌年には日刊化されて1万部を超え、西南戦争の始まった明治10年には3万3400部を突破、東京で最高部数を誇る新聞へと成長していきました。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『読売新聞100年史』(読売新聞)
『読売新聞の創始者子安峻』(竹内繁/日本生産性本部)
『社名の謎と由来』(桑澤篤夫/集英社)

  • 関連出版物
『読売新聞の創始者 子安峻』(竹内繁/日本生産性本部)
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