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『現代日本文学大系 38』(筑摩書房)より
斎藤茂吉関連写真
『現代日本文学大系 38』(筑摩書房)より

斎藤茂吉(さいとう・もきち)

  • 生年
明治 15年(1882)
  • 没年
昭和 28年(1953)
  • 活躍年代
明治 大正 昭和
  • 職業
歌人 医師
  • ゆかりの地
青山病院
  • 旧地名
青山南町
  • 現地名
南青山4-17-43地図を表示

  • キーワード
短歌


  • プロフィール
明治15-昭和28(1882-1953)。歌人、医師。明治38年(1905)親戚の医師・斎藤紀一の養子となって東大医科大学に進学。短歌では伊藤左千夫に入門、明治41年に『阿羅々木』(アララギ)を創刊し、作歌、評論活動を行いました。大正3年(1914)紀一の次女輝子と結婚して長崎医専教授となり、大正10年に欧州に留学しましたが、帰国直前に紀一の青山病院が全焼、茂吉は病院の再建に尽力しました。昭和20年(1945)故郷の山形に疎開し、病院は東京都に移管されます。昭和22年に帰京した茂吉は、歌人として評価を得ながらも、病院再建のために心を砕きました。

  • 港区とのかかわり
病院長をしながら、青山を舞台に数多くの歌を詠む

明治36年(1903)、茂吉の養父、紀一は現在の南青山4丁目に帝国脳病院「青山病院」を創設。茂吉自身は明治40-昭和20年(1907-1945)にこの地に住み、大正13年(1924)火事で病院が焼失後は再建に奮闘、昭和2年(1927)からは院長として経営にあたる一方で、歌人として青山を舞台に数多くの歌を詠みました。現在、病院の跡地には「あかあかと一本の道通りたり霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」という茂吉の歌碑があり、当時の青山の景観に重ね合わせた茂吉自身の心境がうかがえます。また、斎藤家と病院を舞台に、息子の北杜夫は小説『楡家の人びと』を著しました。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『日本の作家100人人と文学斎藤茂吉』(小倉真理子/勉誠出版)

  • ウォーキング・ポイント
斎藤茂吉居住の跡(南青山4-17-40・王子グリーンヒル)
斎藤茂吉の墓(南青山2丁目・青山霊園)
帝国脳病院「青山病院」(南青山4-17-43)

  • 著作
『赤光』(新潮文庫)(岩波文庫)
『斎藤茂吉歌集』(岩波文庫)
『万葉秀歌』(上・下)(岩波新書)
『斎藤茂吉随筆集 』(岩波文庫)
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  • 関連出版物
『青年茂吉「赤光」「あらたま」時代』(北杜夫/岩波現代文庫)
『壮年茂吉「つゆじも」~「ともしび」時代』(同上)
『茂吉彷徨「たかはら」~「小園」時代』(同上)
『茂吉晩年「白き山」「つきかげ」時代』(同上)
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  • 港郷土資料館収蔵資料
アララギ25周年記念号原稿募集文、森山汀川宛書簡、石原逸子宛葉書ほか