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提供:慈恵大学
高木兼寛関連写真
提供:慈恵大学

高木兼寛(たかき・かねひろ)

  • 生年
嘉永 2年(1849)
  • 没年
大正 9年(1920)
  • 活躍年代
明治 大正
  • 職業
医師 教育者
  • ゆかりの地
東京慈恵会医科大学
  • 旧地名
愛宕町
  • 現地名
西新橋3-25-8 地図を表示

  • キーワード
成医会 東京慈恵会医科大学


  • プロフィール
嘉永2-大正9(1849-1920)。医師、教育者。鹿児島で西洋医学を学び上京。海軍軍医を務め5年間のイギリス留学を経験、海軍軍医総監、日本初の医学博士、男爵などの栄誉を得ました。その間、東京慈恵会医科大学の前身となる成医会(せいいかい)講習所、有志共立東京病院、看護婦教育所を設立。また麦飯の採用などで兵食を改善し海軍の脚気を撲滅、“麦飯男爵”として親しまれました。

  • 港区とのかかわり
「病気を診ずして病人を診よ」の名言を残した明治の偉人

兼寛はイギリスから帰国早々の明治14年(1881)に民間医学団体「成医会」を結成し、成医会講習所なる医学校を立ち上げます。当時の日本の医学界はドイツ的医風が主流で、権威・研究至上主義の傾向にありました。そこでイギリス医学を導入し、「患者を研究材料とみる医風から、病に悩む人間とみる医風へ」変革しようとしたのです。さらに、貧しい病者のための施療病院として有志共立東京病院を芝区愛宕町に設立し、院内にナイチンゲールの精神を受け継いだ日本初の看護学校である看護婦教育所も設けました。明治24年(1891)成医会講習所も病院構内に移転し、のちに附属病院を持った東京慈恵会医科大学となります。兼寛が夢に見た病院医学校はこうして誕生しました。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『高木兼寛伝-脚気をなくした男』(松田誠/講談社)
『近代日本の先駆者』(日外アソシエーツ)

  • ウォーキング・ポイント
高木兼寛の墓(南青山2丁目・青山霊園)

  • 関連出版物
『高木兼寛の医学2』(松田誠/東京慈恵会医科大学医化学教室)
『病気を診ずして病人を診よ~麦飯男爵 高木兼寛の生涯』(倉迫一朝/鉱脈社)
『高木兼寛伝 伝記・高木兼寛』 (高木喜寛/大空社)
『高木兼寛伝~脚気をなくした男』(松田誠/講談社)
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