このページの先頭です 写真資料へ移動 キーワードデータへ移動 プロフィールへ移動 港区とのかかわりへ移動 ウォーキングポイントへ移動 著作へ移動 関連出版物へ移動 港郷土資料館収蔵資料へ移動 末尾メニューへ移動



所蔵:青山学院資料センター
津田 仙関連写真
所蔵:青山学院資料センター

津田 仙(つだ・せん)

  • 生年
天保 8年(1837)
  • 没年
明治 41年(1908)
  • 活躍年代
明治
  • 職業
農学者 教育者
  • ゆかりの地
学農社農学校
  • 旧地名
麻布本村町
  • キーワード
青山学院 普連土女学校


  • プロフィール
天保8-明治41(1837-1908)。農学者、教育者。蘭学や英学を学び、外国奉行支配通弁となって渡米。明治6年(1873)ウィーン万博に参加し、西洋農法の教授を受けます。帰国後、学農社農学校を開き、西洋野菜や果樹などの導入と普及に努めました。キリスト教徒、禁酒運動家、津田塾大学創立者津田梅子の父としても知られています。

  • 港区とのかかわり
麻布本村町の自邸に農学校を開設

慶応3年(1867)の渡米は、仙に大きな転機をもたらしました。帰国後、青山の開拓使農事試験場で研究に携わる一方、麻布本村町で新農業を経営。ウィーンの万国博覧会に出席した際には、オーストリアの農学者ホイブレンクから農業の指導を受け、その口述をまとめた『農業三事』が大きな反響を呼びました。さらに明治9年(1876)指導者を養成する学農社農学校を麻布本村町の自邸に開設するとともに、『農業雑誌』を発行。同校は啓発的な使命を終えたのち閉鎖されました。

また青山学院、同志社、普連土女学校、東京盲唖学院など、明治初期のキリスト教主義の学校創立にも重要な役割を果たしました。彼の命名による普連土女学校の開校は津田邸内の仮校舎に由来します。青山学院においては初期の基礎づくり事業のほとんどに関与。仙の葬儀は青山学院の講堂で行われました。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『津田梅子』(吉川弘文館)

  • ウォーキング・ポイント
津田仙の墓(南青山2丁目・青山霊園)

  • 著作
『農業新書』(学農社)
『酒の害』(学農社雑誌局)
著作を検索

  • 関連出版物
『津田仙~明治の基督者』(都田豊三郎/大空社)
『津田仙と朝鮮~朝鮮キリスト教受容と新農業政策』(金文吉/世界思想社)
『津田梅子』(山崎孝子/吉川弘文館)
関連出版物を検索

  • 関連サイト