このページの先頭です 写真資料へ移動 キーワードデータへ移動 プロフィールへ移動 港区とのかかわりへ移動 ウォーキングポイントへ移動 著作へ移動 関連出版物へ移動 港郷土資料館収蔵資料へ移動 末尾メニューへ移動



永井荷風関連写真

永井荷風(ながい・かふう)

  • 生年
明治 12年(1879)
  • 没年
昭和 34年(1959)
  • 活躍年代
明治 大正 昭和
  • 職業
作家
  • ゆかりの地
偏奇館
  • 旧地名
麻布市兵衛町
  • 現地名
六本木1-6地図を表示

  • キーワード
慶應義塾大学 三田文学


  • プロフィール
明治12-昭和34(1879-1959)。作家。アメリカ・フランスを外遊後、『あめりか物語』『ふらんす物語』など多くの作品を発表し、耽美派を代表する流行作家となりました。明治43-大正5年(1910-1916)慶應義塾大学教授を務めるかたわら『三田文学』を主宰し、同誌に小説・随筆・戯曲などを発表しましたが、その作風は大逆事件(明治43年)を機に、江戸の戯作文学の世界へと逃避的傾向を強めていきました。市井に隠遁しつつ反時代的姿勢を貫いたその思想・生活ぶりは、日記『断腸亭日乗』に詳しく見ることができます。

  • 港区とのかかわり
ペンキ塗りの我が家を「偏奇館」と名づけて隠棲

大正9年(1920)麻布市兵衛町(現・六本木1丁目)の木造二階家に移り住んだ荷風は、その家がペンキで塗られていたことから「偏奇館」と名づけ、障子・襖・畳を置かず台所を広くした洋風の家の中で、隠棲的な暮らしを始めました。大正12年には関東大震災が起こりましたが、幸い屋根瓦が少し崩れた程度で火災に見舞われることもなく、偏奇館は無事でした。昭和初期頃からは執筆意欲が旺盛になり、『つゆのあとさき』『ひかげの花』『墨東綺譚』など数々の代表作がここで生み出されました。

しかし昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失し、荷風は日誌と草稿を入れた手さげ鞄を辛うじて持ち出しただけで、蔵書などほとんどの物を失いました。26年にわたる偏奇館時代は終わりを告げ、その後79歳で亡くなるまで、荷風が港区内に戻って来ることはありませんでした。

◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『コンサイス日本人名事典』(三省堂)
『永井荷風』(港区教育委員会)

  • ウォーキング・ポイント
偏奇館跡(六本木1-6)

  • 著作
『墨東綺譚』(新潮文庫)
『ふらんす物語』(新潮文庫)
『摘録 断腸亭日乗』上・下(岩波文庫)
著作を検索

  • 関連出版物
『図説永井荷風』(川本三郎・湯川説子/河出書房新社)
『永井荷風 冬との出会い』(古屋健三/朝日新聞社)
『女たちの荷風』(松本哉/白水社)
関連出版物を検索

  • 港郷土資料館収蔵資料
色紙、永井荷風先生招待会、伝自筆花瓶、木村荘五宛書簡、『春情鳩の町』草稿、関秀一宛書簡、酒泉健夫(空庵)宛書簡、佐藤春夫宛葉書、『地獄の花』『あめりか物語』『すみだ川』初版本、『冬の夜がたり』自筆草稿