平岡煕(ひらおか・ひろし)
安政 31年(1856)
昭和 9年(1934)
明治 大正
実業家
工部省鉄道局新橋工場
新橋アスレチック倶楽部 野球
新橋アスレチック倶楽部、野球安政3-昭和9(1856-1934)。実業家。日本野球の創始者。明治4年(1871)渡米し、ボストンやフィラデルフィアの汽車製造会社に勤めながら鉄道技術を学びました。明治9年(1876)帰国の時、米国みやげに野球道具を日本に初めて持ち帰り、のちに日本で最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成。日本の野球の発展に多大な貢献をし、昭和34年(1959)読売巨人軍を創設した正力松太郎とともに野球殿堂入り第1号となりました。個人経営の車両製造会社「平岡工場」を興して巨万の富を築くかたわら、三味線音楽の東明流を創始し、絵を描き、江戸物コレクションにも造詣が深いなど、多才な趣味人として77年の生涯を終えました。※平岡氏の名前は、正字を使いましたが、実際には「熙」の字ににすいの付く俗字です。
日本初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成
ボストンでの工員時代、野球チームのレギュラー選手となった平岡は、カーブを投げる名投手でした。帰国後、伊藤博文の紹介で工部省鉄道局に入り、新橋工場に勤めるようになった平岡は、明治11年(1878)工場の仲間や学生たちを集めて日本で初めてのベースボールチーム「新橋アスレチック倶楽部」を作りました。つば広の白いキャップ、膝までのニッカボッカーズボン、赤いストッキングというユニフォームは、当時としては非常にハイカラでした。監督兼投手の平岡が投げるカーブは「魔球」といって恐れられたということです。俳人の正岡子規も、一高のベースボール部時代、平岡に野球を習っていました。
◎参考文献
『朝日人物事典』(朝日新聞社)
『日本で初めてカーブを投げた男』(鈴木康允・酒井堅次/小学館)
『ベースボール創世紀』(佐伯泰樹/新潮選書)
『ベースボールと日本野球』(佐山和夫/中公新書)
『日本で初めてカーブを投げた男』(鈴木康允・酒井堅次/小学館)
