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水上滝太郎関連写真

水上滝太郎(みなかみ・たきたろう)

  • 生年
明治 20年(1887)
  • 没年
昭和 15年(1940)
  • 活躍年代
大正 昭和
  • 職業
作家
  • ゆかりの地
麻布飯倉町の自邸
  • キーワード
慶應義塾大学 三田文学


  • プロフィール
明治20-昭和15(1887-1940)。作家。慶應義塾大学在学中の明治44年(1911)、処女作『山の手の子』が『三田文学』に掲載され、作家デビューしました。三田派の中心的存在として大正14年(1925)の『三田文学』の復刊に大きく貢献。執筆活動、後進の指導だけでなく、父親が創業した明治生命保険会社の重役も務め、生涯にわたり文学者と実業家の両方の顔を持ち続けました。

  • 港区とのかかわり
復活した“三田文学の精神的主幹”

小説『山の手の子』の舞台となっている麻布飯倉町の邸宅で誕生。明治24年(1891)には芝区松坂町に移り住み、慶應高校時代は野球部に所属。2塁手として活躍し、作家になってからも三田文学チームと里見-チームとの対戦を組むなど野球を愛好し続けました。

慶大在学中の明治43年(1910)『三田文学』が創刊されると、創刊した新任教授・永井荷風の講義に熱心に通い、久保田万太郎らと交流を育みます。松坂町の自宅に文学仲間を集めて「例の会」を開き、この集いで『山の手の子』を創作しています。大正14年の『三田文学』の復刊に編集委員として尽力し、久保田は水上のことを“三田文学の精神的主幹”と呼びました。『三田文学』の打ち合わせを兼ねて自宅で毎月開かれた、若手作家たちとの親睦を図る「水曜会」は、復刊10周年の昭和10年(1935)まで続けられました。

◎参考文献
『コンサイス日本人名事典』(三省堂)
『水上滝太郎』(今井達夫/フジ出版社)

  • 著作
『水上滝太郎全集』(岩波書店)
『大阪の宿』(講談社文芸文庫)
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  • 関連出版物
『水上滝太郎』(今井達夫/フジ出版社)
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