ヒュースケン(Heusken, Henricus Conradus Joannes)
天保 3年(1832)
万延 元年(1861)
江戸
通訳官
ヒュースケン暗殺の地
麻布新網町
東麻布3-35

赤羽接遇所 善福寺 光林寺 ハリス
天保3-万延元(1832-1861)。オランダ・アムステルダム出身の通訳官。安政3年(1856)、駐日アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記として来日。安政5年、日米修好通商条約の締結に尽くし、イギリス、プロシアの対日条約締結にも協力しました。万延元年(1861)アメリカ公使館への帰途、攘夷派浪士らの襲撃に遭い絶命、29歳の誕生日まであと5日という若さでした。『ヒュースケン日本日記』は幕末外交史の貴重な資料となっています。
アメリカ公使館に駐在し、中ノ橋で刺客の手に倒れる
ハリスの片腕として困難な日米間の折衝に活躍し、ハリスが重病で倒れたときは彼の代理として幕府委員と直接交渉を行いました。オランダ語はもちろん、英語・仏・独語が堪能で日本語にも通じていたため、各国外交団のためにも奔走、陽気な性格で人気があったといいます。しかし、万延元年12月5日(1861年1月15日)夜、プロシア使節宿舎の赤羽接遇所(現・飯倉公園)からアメリカ公使館のあった麻布善福寺へ騎馬で帰る途中、古川の中ノ橋付近で攘夷派の薩摩藩士らに腹部を深く切られて落馬、宿坊に運ばれましたが翌深夜に死亡しました。
葬儀は襲撃の危険の中、各国外交官の列席のもと行われ、遺骸は善福寺から葬列を組んで光林寺へ運ばれました。善福寺は土葬が禁じられていたため、キリスト教徒のヒュースケンの亡骸は、土葬が可能な光林寺に埋葬されました。
◎参考文献
『日本人名大辞典』(講談社)
『港区史跡散歩』(俵元昭/学生社)
『江戸・東京 歴史の散歩道3』(街と暮らし社)
『港区の歴史』(名著出版)
ヒュースケンの墓(南麻布4-11-25・光林寺)
『ヒュースケン日本日記 1855~1861』(青木枝朗訳/岩波文庫)

『開国の使者~ハリスとヒュースケン』(宮永孝/雄松堂出版)
『「ヒュースケン日本日記」に出会ってから、』(西岡たかし/そしえて)
