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港区ゆかりの人物データベースプラス


みなと雑学BOX

イギリス公使館放火事件?犯人は政府の高官

志道聞多(井上馨)上野彦馬撮影 港郷土資料館所蔵
「あの頃はああでなけりゃならんかったのだ!」

なぜ若い頃は攘夷論者(じょういろんしゃ)だったのか、と尋ねた相手を明治政府の実力者・井上馨(かおる)は怒鳴りつけたと言います。

「あの頃」とは幕末のことです。「攘夷」とは幕末の日本に広まった考え方で、「外国人を攻撃して追い出してしまえ」という激しいものでした。当時、日本を無理矢理に開国させた外国は憎しみの的であり、最初にイギリス公使館になった高輪の東禅寺が二度も襲撃されるなど、外国人を狙った事件が多発しました。

怯えたイギリス人たちに安全な場所を求められた幕府は、北品川の御殿山(ごてんやま)に新しくイギリス公使館を建設することにしました。当時、聞多(もんた)と名乗っていた井上は攘夷思想にとりつかれ、伊藤博文(当時は俊輔)や高杉晋作らとともに建設中の公使館を焼き討ちにする計画を立てます。事前の打ち合わせ場所は芝浦の妓楼「海月楼」でした。

文久2年(1862)12月12日の午前1時頃、伊藤の持ってきたのこぎりで柵を切って侵入し、焼き玉(焼夷弾)を使って無人の公使館を全焼させました。その後、井上は前日に酒宴を催していた品川の「土蔵相模」という旅籠屋に戻り、伊藤らは芝浦の「海月楼」に逃げ帰って、燃えさかる御殿山を見ながらどんちゃん騒ぎをしていたそうです。

こんな事件まで起こしたのに、井上と伊藤は一転して開国派となりました。ロンドンに留学して外国の文明を見せつけられ、外国に学ばねば日本は立ちゆかないと考えを変えたのです。若い頃に攘夷論者だったことも、後に開国派になったことも、「国を思ってのこと」だという思いが井上にあったので、質問者を怒鳴りつけたのかもしれません。
参考文献
『街道をゆく1 甲州街道、長州路ほか』(司馬遼太郎/朝日新聞社)
『幕末志士の世界』(芳賀登/雄山閣)
『幕末歴史散歩 東京編』(一坂太郎/中公新書)
『世外井上公伝』(井上馨/原書房)