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港区ゆかりの人物データベースプラス


みなと雑学BOX

江戸湾防衛構想?お台場でペリーに対抗

第三台場の全景。現在は台場公園として憩いの場となっています。
お台場はいまやレジャースポット、観光スポットとして全国的に有名になっていますが、幕末にはペリー率いる黒船から江戸城を守るための防衛拠点でした。嘉永6年(1853)6月のペリー来航後、幕府は品川沖の台場に砲台を据えて、再訪する黒船を迎え撃とうとしていたのです。

この台場建設計画を任されたのは、伊豆・韮山(にらやま)代官から幕府高官に抜擢された 江川太郎左衛門でした。太郎左衛門は幕末の兵学者で、西洋の砲兵術に通じ、海防に強い関心をもっていて、ペリー来航以前から、海防の必要性を幕府に繰り返し進言していました。

太郎左衛門の江戸湾防衛構想は、江戸湾口に台場を築き、三浦半島の真鶴(まなづる)と房総半島の富津(ふっつ)を結ぶラインを防衛の第一線にして、外国船の江戸湾浸入を防ごうというという壮大なものでした。

膨大な経費と年月がかかるので、その計画は幕府に受け入れられませんでしたが、ペリー再訪までに、品川沖の海中に砲台島として2列11基、海岸付近に1基、計12基の砲台を築造することが決定されました。

太郎左衛門は、「間隔連堡(かんかくれんぽう)」という、一定の間隔で複数の砲台を築き、互いに火線を重ねることで防御力を高める方法を採用しました。そして、迎え撃ち、横撃ち、追い撃ちの可能な五角形または六角形の砲台を築くことになりました。

工事は急ピッチで進められましたが、安政元年(1854)1月のペリーの再訪までには一部しか完成せず、3月には日米和親条約が締結されました。結局、お台場は江戸湾海戦に用いられることはありませんでしたが、今も残る第三台場の石垣などを見ると、実に堅固な造りで、実現しなかった壮大な江戸湾防衛構想の一端がうかがえます。
参考文献
『品川台場史考 幕末から現代まで』(佐藤正夫編/理工学社)
『台場 内海御台場の構造と築造』(港区立港郷土資料館)
『幕末・技術官僚の系譜』(佐々木譲/集英社)
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