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港区ゆかりの人物データベースプラス


みなと雑学BOX

大相撲のストライキ?新橋倶楽部事件

明治から大正にかけて活躍した関脇・玉椿憲太郎 所蔵:日本相撲博物館
大相撲の力士が待遇改善を求めてストライキを決行。そんな信じられない事件が明治44年(1911)に新橋で起こりました。

明治の文明開化の世になって、大相撲は後進性の表れと見なされ、相撲無用論の声が高まるなど批判にさらされました。後に天覧相撲などにより人気は回復しましたが、大名の庇護がなくなったことから、経済的な基盤は徐々に弱まっていきました。ストライキの前年の明治43年の5月場所は客が入らなかったために、歩方金(ぶかたきん、興行利益による配当)が十分行き渡らず、力士たちはこれでは生活できないと実力行使に及んだのです。

力士たちは、新橋倶楽部という演芸館兼貸し会場に立てこもり、ビリヤード場を改造した稽古場で稽古を続けながら相撲会所と交渉を続けました。ストライキ力士が独立興行を打つという話まで出るなど、2週間にわたって混乱が続きましたが、ついには警視総監まで仲裁に入ることでようやく収束に向かいました。これが相撲史上に名高い「新橋倶楽部事件」です。

このストライキの時に、世話になった親方に弓を引くわけにはいかないと、玉椿憲太郎という力士だけはひとり部屋に残りました。玉椿は身長159センチ、体重90キロというきわめて小兵の力士でしたが、関脇・小結を11場所にわたって務めた人気力士でした。他の力士からはスト破りとしてにらまれましたが、義侠心を重んじる一部の相撲ファンからは賞賛を浴びました。

その後も大正12年(1923)の三河島事件、昭和7年(1932)の春秋園事件など力士の待遇改善を訴えるストライキは何度か繰り返されています。
参考文献
『相撲、国技となる』(風見明/大修館書店)
『明治不可思議堂』(横田順彌/筑摩書房)
『江戸東京学事典』(三省堂)
現住所
新橋倶楽部(新橋2丁目烏森付近)地図を表示