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港区ゆかりの人物データベースプラス


みなと雑学BOX

白瀬中尉の真実?18馬力のエンジンで挑んだ南極探検

埠頭公園の南極探検隊記念碑。ペンギン像は彫刻家の朝倉文夫の作品(左)
埠頭公園の開南丸をモデルにした遊具(右)
明治45年(1912)、南緯80度05分の南極大陸の雪原に日本の南極探検隊が到達しました。緯度が上がるにつれ “吠える40度、 狂う50度、 叫ぶ60度”と表現されるほど大氷河と暴風雨で荒れる海域は、最新の船舶技術をつぎ込んだ砕氷船でさえ航行は容易ではありません。それが約100年も前の日本の南極探検隊は、わずか18馬力(125ccのバイク並)の木造船で南極を往復したのです。無事生還できたのは奇跡と言うべきものでした。

この日本初の南極探検を指揮した隊長・白瀬矗(しらせ・のぶ)は、文久元年(1861)秋田県生まれ。少年の頃から北極探検にあこがれ、その人生はひたすら夢の実現に向けての精進でした。米国に北極制覇の夢を破られ、白瀬は南極に目的を変えての極地探検を計画します。この日本初の南極探検は国家の援助を得ることができず、国民の募金により事業資金を作らなくてはなりませんでした。資金不足の中で調達できた南極探検船・開南丸は、204トンのサケ漁船に18馬力の蒸気機関を付けたお粗末なものだったのです。船があまりに貧弱だったために、事業協力を申し出ていた新聞社は約束を反故にし、新聞紙上で白瀬を詐欺師扱いするほどでした。

ちなみに当時南極制覇を競っていたノルウェー・アムンゼン隊のフラム号は404トン。最新式の石油補助エンジンを装備した帆船で、南極探検用に氷河対策を施したものでした。英国・スコット隊のテラノバ号は744トンの元捕鯨船で石炭式補助エンジン付の3本マストの帆船。どちらの船も白瀬隊の開南丸をはるかに上回る装備でした。

誰もが無謀と思うような探検船で、極点に届かなかったとはいえ、南極探検の快挙を実現できたのは、ひとえに白瀬矗隊長の夢の実現にかける強靱な意志と精神力、そして、野村直吉船長の優れた航海・操船術によるものでした。

明治45年(1912)6月19日、東京芝浦埠頭に帰港した開南丸を5万人もの人が大歓声で迎えました。この快挙を記念して埠頭公園には「白瀬南極探検隊記念碑」が建てられました。
参考文献
『南極観測船ものがたり』(小島敏男)
『明治不可思議堂』(横田順彌/筑摩書房)
『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝?白瀬矗?』(NHK出版)
現住所
南極探検隊記念碑(海岸3-14-34 埠頭公園)地図を表示