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港区ゆかりの人物データベースプラス


みなと雑学BOX

自転車大好き?志賀直哉

自転車は今ではありふれたものかもしれませんが、明治時代には大変高価なものでした。幕末の頃から居留地に住む外国人の乗り物として日本に入ってきてはいましたが、日本人にとっては一部の物好きの趣味にすぎませんでした。15代将軍・徳川慶喜もそんな物好きの一人で、よく自転車を乗り回していたようです。もちろん、当時は輸入物です。

国産自転車の製造が宮田自転車によって始まったのは、明治26年(1893)のことでした。そして、明治31年(1898)に上野の不忍池(しのばずのいけ)の周りで、日本初の自転車レースが行われた頃から、自転車に乗ることがスポーツとして流行し、爆発的に普及し始めました。流行の担い手は学生たちで、その中には 志賀直哉もいました。

「学校の往復は素(もと)より、友達を訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった」

「自転車」という作品に書かれている通り、志賀直哉は自転車が大好きな少年でした。麻布三河台町(現・六本木)の自宅を出ては、赤坂の三分坂(さんぷんざか)や江戸見坂を自転車で下ったり、横浜や千葉へ遠乗りしたりしました。さらに、町で行き会った知らない自転車乗りに競争を挑み、競争に飽き足りなくなると後輪だけで走る曲乗りにも挑戦しました。興行でバーンという外国人の曲乗りを見たのがきっかけです。

その研ぎ澄まされた文体から気難しいイメージをもたれがちな志賀直哉ですが、こんなはつらつとした少年時代があったのです。ところで、志賀少年の乗っていた自転車は輸入物の最高級品で、同時代の少年たちにはとても手が出ない代物だったそうです。
参考文献
『明治文学の世界 鏡像としての新世紀』(斉藤慎爾/柏書房)
『明治ものの流行事典』(湯本豪一/柏書房)
『現代日本文学大系34 志賀直哉集』(筑摩書房)
『まち探訪ガイドブック』(港区産業・地域振興部)
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直哉少年が自転車で下った三分坂(赤坂7-8-1)地図を表示