江戸時代中期に発生した主君仇討ち事件。元禄14年2月4日(1701年3月3日)に赤穂藩主・
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)が、高家(こうけ)・吉良上野介義央(きらこうづけのすけ・よしなか)への遺恨から、江戸城内松の廊下で刃傷事件を起こしたのが事件の発端でした。浅野は切腹、吉良はお咎めなしということになり、処分に不服だった大石内蔵助良雄以下
赤穂義士47人が、元禄15年12月14日(1703年1月30日)に吉良邸に討入り、上野介への仇討ちを果たしました。
荻生徂徠の提言もあり、後に義士は切腹処分になり、主君とともに高輪の泉岳寺に葬られました。