浮世絵散歩
[名所を歩く]
赤羽水天宮
解説
日本橋の水天宮は安産の神様として親しまれていますが、江戸時代にはいまの日本橋ではなく、芝赤羽の久留米藩有馬家の上屋敷内にあり、江戸庶民の間では「そうでありまの水天宮」という地口もあったほど、知られるところでした。水天宮が日本橋蛎殻町に移転したのは明治5年(1872)のことです。
絵のタイトルは水天宮となっていますが、歌川広重は有馬屋敷内の塀の中から微かにのぞく幟を描くのみで、むしろ長い塀に囲まれた有馬屋敷がモチーフとなっていることがうかがえます。
「江戸名所 赤羽祢水天宮(えどめいしょ・あかばねすいてんぐう)」
広重(歌川広重初代)
安政元年(1854)閏7月
有田屋清右衛門
赤坂水天宮跡(三田1-3付近)
「江戸名所之内 芝赤羽根 水天宮(えどめいしょのうち・しばあかばね・すいてんぐう)」
広重(歌川広重初代)
[天保11-13年(1840-42)頃]
赤坂水天宮跡(三田1-3付近)
「江戸名所 赤羽根水天宮(えどめいしょ・あかばねすいてんぐう)」
広重(歌川広重初代)
安政5年(1858)3月
山田屋庄次郎
赤坂水天宮跡(三田1-3付近)